植物の生命を動的に汲み出す、
花芸安達流。
「安達流の花は、静止しているのに、まるで野に咲いているかのような動きを感じさせるところに特徴があります。『逆不等辺三角形』という理論に基づいているのですが、植物を器の真ん中に生けないのですね。器の端の方に花留めを置き、枝が器の外に流れるような生け方を主とします。この生け方は安達流の始祖・安達潮花が考えたものですが、当時の花道界は器の中心に花留めを配置し静的な美を表現するのが主流だったので、新鮮に受け入れられたそうです。自然の中で生命を輝かせる植物への想い、植物が成長していく姿にある『不安定の中の安定』という美しさを、作品の中に取り込んでいるのです。ちなみに、『花芸』の『花』は伝統的な花道の花から、『芸』は西欧の芸術意識の芸に由来しており、両方の長所を生かしたいとの想いが込められています。花芸が最終的に目指すのは、緑と花とを通して、人と人がともに高めあえる何かを紡ぎ出す境地です」。
庭の椿をひと枝、グラスに。
その生活芸術は花道の原点に通じる。
「母である初代・安達曈子は以前、『桜は日本人の精神性の象徴。椿は日本人の生活の象徴』と言っていました。椿のお花は鑑賞されるだけでなく、時に髪飾りや食用にもなる。種子からは椿油がとれ、樹木は炭にして使われるなど、日本人の生活の中に深く浸透しているからでしょう。そんな生活の象徴としての椿に想いを馳せ、今日は『椿の炭の花留め』を使って椿を生けてみました。生け花は敷居が高い印象を抱かれる場合もありますが、お花を生けること自体はさして特別なことではないと思うのです。例えば、庭で美しい椿が咲いていたら、グラスにポンと生けて日々の暮らしをともにする。それこそ生活芸術だと捉えています。生活芸術は、花道の原点にも通じています。日本人が農耕民族として暮らしていた古くは、自然そのものや大木などに宗教的な感情を抱いていたことでしょう。その後、植物も私たち人間も同じ生命だという気づきから植物に対して共感的な感情を抱くようになりました。花芸安達流は、植物と人間との素朴な交感をとても大切にし、自然中心的な花芸の世界観につなげています。現代は、物質的には豊かになりましたよね。その一方で、心の豊かさはどうだろうと思うことも正直あります。物質的な豊かさと心の豊かさは違うものだと思うので、花を通して心の豊かさを生み出すことができたらと思い、日々花と向き合っています」。
どの一輪にも「私は椿ですよ」という
確固たる存在感がある。その凛とした美しさ。
「実は安達流の始祖・安達潮花は椿の収集家、いうなら椿マニアでした。その祖父と長らく生活と行動をともにした初代・安達曈子も桜と椿を数多く生けています。その縁もあり私にとっても、小さな頃から椿は特別な存在です。藪椿でいうと、濃緑の葉に覆われながら点々とたくさんの花をつけている立木の姿も好きです。一方で、ひと枝に切って花をメインに見てみると、すごく凛とした自己主張の強い花なんですよね。立木の時とひと枝にした時とで、花一輪の印象がこれほどまでに変わる植物は珍しいです。さらに椿はとても多くの品種があり、花の色も大きさもそれぞれ全く違うのですが、どの花にも「私は椿ですよ」と主張する佇まい、存在感があります。そこも好きですね。椿といえば大島椿の椿油ですが、実は11歳の頃から使わせていただいています。今でも髪をまとめる際のヘアオイルとして使用したり、メイク落としとして使用したり。家族みんなで使っているので、夫や息子も大島椿の恩恵を受けています。花道家にとって特別な存在である鋏の手入れとして、刃こぼれや錆が出ないように椿油をコットンに含ませて拭くこともあります。やはり椿は生活の象徴ですね」。