その場のすべてが衝撃だった
藍染体験
「藍師・染師となったきっかけは、興味をもって訪れたはじめての藍染体験で言葉にできない衝撃を受けたこと。工房を訪れた際にまず、嗅覚が食らった感じでした。一歩一歩、工房の奥に進むにつれてその匂いが濃くなっていった感覚を覚えています。染色液を至近距離で嗅いだ時の匂いも、染色液のヌルヌルとした手触りも、茶色の染色液につけた布が、空気に触れる過程でみるみる藍色に変化していく驚きも。言葉にできない、感覚知としての衝撃でした。謎の使命感が湧いてきて「自分は藍染をしなければならない」と思い、その4日後には当時勤めていた貿易会社に退職願いを提出していました。はじめて藍染に触れた日から10年、ずっと夢中ですね」。
唯一無二の藍色を追求したい。
色の責任の全てを、自分で背負いたい
「藍染は分業制で行うのが一般的です。藍の葉を発酵させて染料となる蒅(すくも)を作る人(藍師)、蒅を使って染色液を仕込み、染める人(染師)がそれぞれの工程を担当します。ですがWatanabe’sは分業をせず、藍の栽培から蒅作り、染色、さらに衣類製造まで、全工程を自分たちで行っています。僕は地域起こし協力隊としてここ徳島に来て藍染を学ばせてもらう一環で、藍を栽培する農業体験にも関わりました。とても過酷で、『藍の栽培は、今後きっと減少する』と思いました。藍を栽培する人が減れば、染料の供給が追いつかなくなることは目に見えている。さらに、藍染で一番の特徴は色だと考えているのですが、染師だけをしていると大事な色作りに関われる領域が意外と少ないことにも気づきました。『藍色』は、どうしても蒅ありきになってしまうからです。藍の栽培・蒅作りも含めて自ら担当することで、色に対する責任を全面的に背負うことができると思いました。何かものづくりをする以上、その全責任を取りたいと昔から思っていたんです。染料の供給が少なくなる可能性に影響されない未来を手にしたいし、唯一無二の色をより高次元で追求したい。そんな気持ちが相まって、藍の栽培から染色までを自分たちで行う現在のスタイルに行き着きました」。
自分で作っているけれど、
オレが作った色とは思わない
「藍染って、人間がコントロールできないものに向き合う仕事でもあるんです。藍が育つ畑や、蒅が発酵するための環境を出来るかぎり整えることはできるけれど、最終的には天候や菌などアンコントロールな領域に委ねることになる。個人的には、神事に近い感覚さえあります。自分で作っているのだけれど、オレが作った色という感覚はない。この土地で生まれた色、この土地で作らせてもらっている色なんですよね」。
「土地といえば、ここで生じる地域コミュニティの存在も大きいです。畑の土づくりも、蒅の発酵も、蒅を保存する木桶の管理なども、地元のちょっとした縁から日々学ばせてもらっています。例えば土作りでは、カブトムシ好きな水道屋さんと、『カブトムシに最適な土ってどんなだろうね』という雑談からヒントを得る。吉野川という水資源に恵まれるこの土地には日本酒や味噌の造り手で発酵に関する知識を持っている人がいるのですが、そういった方から伺った話が蒅の発酵に生かされる。同じ杉製の木桶を使う味噌屋さんに蒅を入れる木桶の管理を教えてもらい、職人さんを紹介してもらう。そういったことを含めて、この土地でやっている意味があると思うんです」。
ど真ん中の王道こそかっこいい
「そのような地域コミュニティで日頃から関わり合っている僕らの世代(30代後半から40代前半)って代替わりの世代でもあり、面白い人が多い気がします。かつてあったはずの王道がなくなっている業界の現状に危機感を覚えて、あえてど真ん中に直球を投げようとしている人も多い。ダサいと言われてきた王道を今やってこそ、という気概があるんです。建具の職人さんや宮大工さんとは、業界が違うからこそ、それぞれの着眼点での気づきを情報交換できる面白さもあると思いますね。王道ってやっぱりすごいんですよ。そういえば大島椿も王道ですよね。僕みたいな、何年もリピートし続けるめちゃめちゃ根強いファンがいる。新しいものが出たから買うのではなくて、常にこれじゃなくちゃダメというようなもの。王道だけがもつ底力ってあると思います」。
髪、肌、ひげ。大島椿は全てに使える
「もう何本目になるか分からない大島椿は、7年前から愛用しています。僕が気に入っているのは、これ1本であらゆるケアができること、ベタつかないこと、何より天然成分100%だということ。風呂上りのヘアケアはもちろん朝の身だしなみでも使うし、畑仕事で汗をかいて塩っぽくゴワゴワになった素肌のケアにも、染料でカサカサになったハンドケアにも使っています。手には特に、天然でないものは塗りたくないと思っています。自分の乾燥対策だけならどんな保湿剤でもいいのかもしれませんが、天然以外のものを塗った手で染色液に手を入れることに抵抗があるんですね。選ぶ保湿剤によっては手についた成分が染布をコーティングしてしまい、その部分に染色液が入らなくなることだってあるんです。あらゆる観点から大島椿を選び、使い続けています」。
続く色を作りたい。
生活の中で使われてこそ、美しさは保たれる
「僕は、『藍』という色を人々の生活の中に取り入れてもらいたい、と思っています。以前は、畑から生まれた色として藍をアートワーク(観賞用の美術品)に落とし込んだりもしたのですが、紫外線の影響で色が焼けて飛んでしまうんです。一方で、江戸時代などに藍染された着物が現代でも美しい色を放っていたりする。何が違うのか考えると、やはり『使われ続けているかどうか』が大きいんです。生活の中で着用され、使われて洗われるたびに植物染料独特の灰汁が抜け、藍の色が鮮やかに残っていくという特徴がそこにあるんですね。200年、300年先まで藍色を残したいと思えばこそ、日常で使い続けてもらえる製品に落とし込まなければいけないんです。そうしないと、僕たちが大切にしたい色は後世に残らない。使われない、日常で手にとってもらえないものを作っていることは罪なんじゃないかと思うほどですね」。
未来には、ロマンがある。
藍染って、数百年先まで自分の色が残せる仕事だから
「実は昔は紺屋(染屋)が各地の宿場町にあり、往来する人々の日常着などを染め直していたんですって。ここ徳島で毎日コツコツ畑をして、毎年しっかり自分たちの色を追求して、日常で使っていただける商品を作るということがもちろんベースですが、いつか他の国の藍の文化を見て回りたいとも思っています。各国の染色と衣食住の結びつきも知りたいし、発酵がよくなるヒントが思いもよらないところにある予感がする。今はなかなか移動することが難しい状況ですが、未来にあるロマンを想像するのはすごく楽しいですよね。現状維持に励むより、こうなったらいいなという長期スパンの楽しみを持って日々を過ごしていきたい。200年先、300年先に自分が染めた色が残っているなんて、そんな仕事なかなかないじゃないですか。海外に行くことがあれば? その時はもちろん、大島椿の瓶を持っていきますよ。実は今、木桶を頼んでいる京都の職人さんに、大島椿の渋い瓶がバックパックの中で割れないための入れ物を特別に作ってもらっているんです。その専用ケースに入れて持っていくのが楽しみですね(笑)」。