印刷でも芸術でもある木版画
古くは飛鳥時代に日本に伝わったとされ、江戸時代には浮世絵が大変栄えたことで発展した「木版画」。1枚の和紙に複数の木版を用いて色を重ね、ひとつの絵を完成させる伝統的な凸版印刷のひとつです。例えばこの有名な葛飾北斎による富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」だと、色数は9色。うち1回は、同じ版木で2色をのせているので8工程でひとつの作品を完成させています。木版画は大きく分けて原画を描く「絵師」、版木を彫る「彫師」、色を摺る「摺師」の職人が分業して1つの作品を作り上げています。沼辺木版は摺師である父と僕とで起こした会社で、摺ることが専門ですが、絵師・彫師の方々を盛り上げる一助になればと、版元という出版社にあたる仕事も行います。企画を立て、それに沿って絵師に原画を依頼し、彫師に彫ってもらい、我々が摺り、販売しています。
道具は職人のお手製が基本
木版画は昔ながらの方法が継承されていて、さまざまな道具を使いますが、その大半はお手製です。例えば、版木に絵具をのせるブラシ。馬の尻尾の毛で作られており、サメの皮でこすり毛先を枝毛にします(刷毛おろし)。この枝毛によって絵具をよく含み、版木の上に均一に広げることが出来ます。電動のヤスリなどなかった時代に、自然のもので道具を仕立てていた昔の人の知恵はすごいなと思いますね。今はブラシ屋さんが電動サンドペーパーでおろしたものも売っていますが、うちは昔ながらの方法で道具をより使いやすく調整しています。
自在な色表現のバレンも手作り
絵具をつけた版の上に和紙をのせ、摺る時に「バレン」という竹皮で包まれた道具を使います。小学校などの図工で手にした方も多いかもしれませんね。実はこのバレンは全て職人の手作りで、中には当皮(あてがわ)と芯が入っています。当皮は桐の小さな丸太の両端に、空気が入らないよう和紙を1日1枚ずつ約50枚貼り合わせ、最後に絹を被せて漆で塗り固めて作られます。芯は竹皮の繊維を細く割き、撚って約3mの綱を作り、渦巻き状にしたものです。素朴な道具に見えますが、手間ひまかけて作られているのがわかりますよね。さらに、芯は太さによって摺った時の紙への当たり方が全く変わってきます。太いものは強く、細いものはやさしい当たり方となるので、絵具の付き方、色の出方がやはり変わってきます。私たちにとってバレンは手の力を直接紙に伝える物なのでとても重要な道具です。
バレンの滑りをよくする大島椿
実は、竹皮バレンは新しく包みたてのものだと、紙の上をすべらずまともに摺れません。そんな時に活躍するのが大島椿です。潤滑油という視点で油にもいろいろあると思いますが、大島椿は自然なものなので安心して使えるのですよね。大島椿がない時は、職人が自分の頬などに当てて、わずかな皮脂でうるおしていたとも聞きます。ベタベタしない、自然なうるおいがちょうど心地よいすべりにつながるのかもしれません。今日お聞きして知ったのですが、椿油の主成分は人の皮脂にも含まれる成分というのは驚きました。理にかなっているのですね(笑)。
手仕事の最終ランナーとしての摺師
この「神奈川沖浪裏」の版木は父の親方から譲り受け、恐らく60年以上使われているものです。油分があり、密度が高い山桜を使っているので、ごく細い線も長い間維持できます。版木は木なので、効率だけを優先して一気に摺ろうと使い続けると、絵具の水分を吸い過ぎて柔らかくなってしまい、激しく消耗してしまいます。そのため100〜200枚摺ったら版木を休ませて、今も大切に使い続けています。さらにいうと、彫師が彫る前の版木の表面を完璧に平らに削り整える専門の職人が日本にはもういないのです。まったく歪みや段差のない平らな版木は、それは美しい。その専門の職人さんがいなくなってしまったので、いまは必要な時に宮大工や指物師の方などに依頼してやっていただく状態です。我々は摺師という職業ですが、絵師、版木の削り手、彫師、和紙の原料となる植物の楮(こうぞ)を育てる方、和紙を漉く方など、さまざまな方の手仕事の連なりが欠かせません。完成度の高い仕事というのは、関わるすべての方の思い入れや力量があって辿り着けるのだと感じます。僕たちは、その最終ランナーとして摺らせてもらっているのだ、と。ですので、自分達がしっかりと摺ることはもちろん、木版画ならではの魅力をより広く伝えることで、一連の職人の方々を引っ張っていく一助になればと考えているのです。
伝統の先にある、最上の表現を追求する
江戸時代に生み出された木版画、特に浮世絵などは世界に誇る芸術作品として評価されていますよね。私たちは摺師として、木版画独特の、和紙に摺り込まれた色の素晴らしさを追求しています。使う色やその配置はひとつ決まったものがあるのですが、力の入れ方、摺るスピード、バレンを動かす範囲、絵具のちょっとした調合の工夫。それらの掛け合わせで、同じ版を使って一見同じに見えたとしても、よく見ると異なる空気感が立ち上ってくると考えているからです。どこかで木版画を目にされた際はぜひ、構図や色合いの美しさに加えて、目の前にある作品一点一点を鑑賞ください。そこには、摺師一人一人による、一枚一枚への思いが必ずあるはずですから。